【前編】現場取材5000件のリポーター 元・ひめゆり学徒隊の壮絶な過去を取材


沖縄慰霊の日だった6月23日、AbemaTVのニュース番組『AbemaPrime』では、特集コーナー「所太郎の今だから言える“真実”」にて、レポーター・所太郎氏が「沖縄の話」を取り上げた。このコーナーは、所氏が、過去に取材した事件事故を振り返り、若い世代に、「本当に伝えたい真実」を語るというもの。



71年前の6月23日は、第二次世界大戦において、日本唯一の地上戦と呼ばれる沖縄戦で、旧日本軍の組織的な戦闘が終わった日とされている。この日を沖縄では「慰霊の日」とし、今年も沖縄・糸満市平和祈念公園で、「沖縄戦全戦没者追悼式」が開催された。

この日は戦争体験者やその家族らが「平和の礎(いしじ)」に刻まれた24万を超える犠牲者の名を指でなぞり、1日平和への祈りを捧げる。沖縄では学校が休校にもなる。71年前は、何の経験もない沖縄の女学生がひめゆり学徒隊として戦場に駆りだされ、看護などの過酷な任務に当たった。


所氏は番組で、ひめゆり学徒隊だった女性を取材した話を紹介しながら、「戦争を知り、伝えていくこと」の大切さを力強く語った。



■「ひめゆり学徒隊とは」所氏が説明

「ひめゆり学徒隊」というのは、沖縄で看護要員として強制動員された女学生です。名前の由来はお花の名前からとったんじゃないんです。沖縄県立第一高等女学校の校友誌の名前「おとひめ」と、沖縄師範学校女子部の校友誌である「白百合(しらゆり)」からとって、「ひめゆり」と名付けられました。

ひめゆり学徒隊の平均年齢は、16歳。7年前に私が取材した追悼式で、忘れられない話をしてくださった方がいます。元・ひめゆり学徒隊の一人だった、宮城喜久子さんです。

宮城さんは沖縄戦の記憶を残すために、ひめゆり平和記念資料館の開設に尽力され、語り部としても活動されてきました。しかし…、1年半前にお亡くなりになられて、もう話をお聞きする事はできません。

戦争の悲惨さ、平和の大切さをかみしめ、伝えていくため、7年前に私が宮城さんと巡った沖縄を、改めて取材してきました。



■元・ひめゆり学徒隊・宮城喜久子さん(VTRよりコメント抜粋)

「悲しさや悔しさは忘れることができない」として、知らない世代に語り継いでいくことを誓っていた宮城喜久子さん。

当時は、「国に殉ずることが日本人」とされた時代。戦時中は40くらいの病院壕が掘られ、薄暗い穴にベッドを並べただけの病院で、ひめゆり学徒隊は注射を打つなど手当を行った。その中に次々と負傷兵が運ばれ、壕のなかは悪臭が充満し、うめき声や怒鳴り声が絶えなかったという……。

また、ひめゆり学徒隊は、水汲みや死体の埋葬といった任務も課された。壕のそとにでなくてはならない危険な仕事で、外に出たとたんにアメリカ兵に狙われたという。

「一秒一秒を生きるのが精一杯。次の一分を生きることだけを考え、(学徒隊解散まで)3か月の間、熟睡をしたことは一度もありません。だって、24時間砲弾はやまないのですから」(宮城さん)



その後、陸軍病院にも撤退命令がくだされ、移動先は「ガマ」といわれる大きな壕だった。「ガマ」とは、沖縄本島南部に多く存在する自然洞窟のこと。明かりはなく、漆黒の闇だった。


「そして、6月18日の夜、約3ヶ月にも渡って命がけで負傷兵の看護を続けたわたしたちに、本部から解散命令が出ます。これ以上団体行動はできないので、学徒隊を解散するという通達です。最初、何をきいているのか理解できなかった」(宮城さん)。



所氏はこのVTRを見終えた後、スタジオにいる出演者に「想像できます? 次の1分1秒を生きるという生活を。そこに若い女子学生たちが巻き込まれていった。そもそも自分の意思で参加していないのに、解散命令が出て、まだ戦時中の外に”ぽっ”と放り出される。足手まといを切り捨てたというだけのことだったのではないのかと想像できますよね」と語った。


「AbemaPrime」は毎週月〜金曜日 20:00〜21:50「AbemaNews」チャンネルにて放送中

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