戦争浮浪児が語る終戦72年 「妻や子どもにも言い出せなかった」上野での過酷路上生活

 「ころっとかわって、どこがどこかわからへん(笑)」「全然変わってしまって面影がない。だけど、西郷さんの銅像から昔のことを思い出した」


 72回目の終戦記念日を迎えた15日、64年ぶりに大阪から東京にやってきたのは、筒井利男さん(84)。

 あの戦争を生き延びた子どもたちの中には、"浮浪児"と呼ばれる人たちがいた。実は筒井さんもその一人だ。上野の路上や地下道で寝泊まりする、過酷な生活を強いられた時期もあった。「横になって寝てるかと思ったら死んでんねん」。1日に2,3人が亡くなることもあったという。


■「みんなに嫌われて、浮浪児を蹴飛ばしていく人もいた」

 1945年(昭和20年)3月10日。352機のB-29が飛来、東京大空襲が始まった。落とされた爆弾は38万発。焼夷弾と呼ばれる可燃性の高い爆弾は木造建築が集中していた下町を軒並み焼き尽くし、一夜にして市街地の東半分を壊滅させた。死者・行方不明者は10万人、被災者は100万人にものぼり、単独の空襲では世界史上最大の犠牲を出した。


 当時の様子を描き続けていたのが、画家の狩野光男さん(86)。浅草の実家が焼け落ち、両親と二人の妹と逃げたのが言門橋のたもとだった。そこはまさに地獄絵図。狩野さんの家族も含め、避難してきた人のほとんどがこの場で亡くなったという。「死体でいっぱいで、助かったのは僕だけ。だから申し訳ないような気持ちもあるが、こればかりはしかたない」。

 その後、運良く映画の看板描き職人の元に弟子入り、画家としての人生を歩み始めた。「その先生がいなかったら僕は多分あまり良い方(人生)にはいってなかった」。


 空襲で家を失いながらも、親がいた子どもたちは国が用意した共同施設や焼け跡のバラックで身を寄せ合うことができた。しかし、そうではない戦災孤児たち。厚生省は保護委託、養子縁組の斡旋などの対策を講じた。戦後、厚生省が行った調査では、昭和23年の時点で全国に12万3千人の孤児がおり、そのうち10万人が親戚などに引き取られていったという。


 東京大空襲で両親と兄、妹を失った星野光世(83)さんもその一人だ。

 当時11歳だった星野さんは、残された弟と妹と一緒に、千葉や新潟にある親戚の家をたらい回しにされた。そのうちの一軒では、すごいご馳走を用意された。「このままここにいたら、何か起こりそうな気がして、翌朝、その家を飛び出し父親の実家に逃げ帰った」。後年星野さんは、農村地帯で人身売買が多発、社会問題になっていたことを知る。大卒の初任給が約3000円だった時代、発育盛りの子供たちが一人3000〜5000円で売られていたのだ。


 星野さんはこの夏、自身の体験や、同じく戦争孤児となった人たちの話を一冊の本にまとめた。その中には戦災孤児の中でも、特に辛い経験を持つ人たちが登場する。それが筒井さんのように、路上生活を送っていた"浮浪児"たちなのだ。

 「みんなに嫌われていた。浮浪児を蹴飛ばしていく人もいた。優しい言葉をかけてくれる人は一人もいなかった。一度こんなことを言われたことがある。『この子(星野さん)たちは、うちが育てなかったら今頃は上野で浮浪児をしてたんだろうね』って」。


■「置き引き、盗みも普通だと思っていた」

 浮浪児たちが集まっていたのが、当時"ノガミ"と呼ばれていた上野駅周辺だ。地方へ出て行く人、地方からやってくる人たちが集まるターミナル駅だったため、他の場所と比べ物乞いもしやすく、地下道など、雨風をしのげる場所も多かったからだ。東京大空襲の直後、上野に身を寄せた被災者は1000人を超え、そのうち1割が年端もいかない浮浪児だったという。


 「地下道に通路の両脇に2列3列並んでいた。そこをかきわけて自分の寝る場所を作るくらい。トイレに行ったら自分の場所が無くなっていたり、朝になったら一緒に寝てた子が冷たくなってたり」(筒井さん)。


 今回、筒井さんと一緒を上野をめぐったのは、ノンフィクション作家の石井光太氏。石井氏は、そんな浮浪児たちの実態を調査、『浮浪児1945‐: 戦争が生んだ子供たち』として発表している。

 「冬の時期は凍死してしまうので地下道に集まってくる。ものすごい人の数で、大小便をその場でする人もいるし、病気の人であれば我慢できない。身体が弱い人は次々と死んでいく。病院に運び込まれて亡くなっていく子どもたちもいた。最期まで、もう会えないお母さんの名前を呼んで死んでいったり、ご飯が食べたいと言うので仲間が手に入れて戻ってくると死んでいたり。仲間が死んだ子の口にご飯を入れて『おいしいだろ』と呼びかけていた。そういう光景が当たり前だった」(石井氏)。

 1945年6月の大阪大空襲で家族と生き別れ、食べ物を求めて上野に行き着いたという筒井さんも「置き引き、盗みも普通だと思って、ちょっと油断している間に持って逃げて。広場で『これがなんぼ!』と、5銭、10銭で売っていた」と振り返る。


 当時の上野では地方出身で警戒心の薄い人たちが多く、そんな人たちを浮浪児は狙っていたのだという。さらに、こんな現金の作り方もあった。


 「無賃乗車で埼玉県に物をもらいに回った。『実は親兄弟はこうこうで戦災でみんな焼かれておらん。だから昼も食べられへん』と言うと、田舎のことだから芋を蒸したり握り飯を作ってくれたり。それをもらって帰ってきて、一山なんぼで売った」(筒井さん)


 シケモクや新聞売り、靴磨きなどの商売から、カツアゲ、スリなど、浮浪児たちは金になることならなんでもやっていた。筒井さんは米兵相手に売春をするパンパンと呼ばれる街娼たちに可愛いがられていたといい、彼女たちの使い走りをして稼いでいた。「割と気前が良くて、今の感覚だと1回で5、600円くらい」。


 「腐るまで取っておいて、カビが生えててもそれを取って食べた時代」。闇市で大人気だった外国人専門食堂でも手伝いをした。「PX(米軍の売店)に外国人専門の食堂があって、鼻紙やタバコのカスが入っているような残飯をみんなで掃除して、また炊きなおす。それがまた美味しい。いまだにあの味は忘れられない」。この一杯5円ほどで売られていた通称"残飯シチュー"は、同じ値段のそばやうどんとは比較にならないほど売れていたという。


 そんな闇市が広がっていたエリアこそ、現在多くの人が行き交う「アメ横」だ。


■私財を投げ打ち、浮浪児のための民間施設を作った主婦

 終戦の年の11月には、寒さや飢えで1日に6人が上野の地下道で命を失っていた。警察は浮浪児たちをはじめ、駅を根城にしていた人たちの犯罪の抑制や救済の目的で、"刈り込み"とよばれる一斉摘発を開始。トラックの荷台に乗せられ収容施設へと移送した。筒井さんたちが連れて行かれたのは、養育院という施設で、脱走防止の鉄格子もあったという。石井氏によると現代の鑑別所のような場所で、収容された子どもたちが暴力を振るわれることもあったという。さらにそこから全国各地の孤児院などに送られ、散り散りになっていった。


 「子どもたちにスリの技術を教える"学校"のようなものもあった。売上の一部を校長先生への上納金にしていた」「彼らは生きるために万引きをしなければいけなかったし、お風呂にも入れないので虫が湧いていた。中には自分を助けてくれたヤクザの世界に入ってしまって、危険な人間、違法なことをする悪い人間だと思われてしまった子もいる。必死に生きていかなくてはいけなかった一番の犠牲者なのに」(石井氏)。


 筒井さんも東京郊外の孤児院に移送されたが、そこでは厳しい農作業が待っていた。農家にとっても、若い働き手が足りない時代だったのだ。


 「素足で麦踏み。こんなところにいたらどうなるか分からない」と考えた筒井さんは、一緒に働いていた仲間と脱走。13歳から18歳までの5年間、東京・中野区にある民間施設「愛児の家」に身を寄せた。

 愛児の家は70年が経った今も、児童養護施設として子どもたちを受け入れており、創設者・石綿さたよさんの三女・裕さん(84)が子どもたちの母親代わりをしている。戦前から事業を営み、裕福な家庭だった石綿家が戦災浮浪児の拠り所を提供しはじめたのは終戦の年の10月だ。最盛期には100人を超える浮浪児を受け入れていたという。

 さたよさんについて「別荘から戻ってきて上野に着いたときに、子どもがいっぱいいて、『これは何とかしなきゃ!』って。もともと人助けをするのが好きな人だった」と話す裕さん。最初に引き取ったのは、名前しか話すことができなかった子どもだったという。


 中には汚れがひどくお風呂に入るまで性別が分からない子どもや、空襲のショックからか記憶を失った子どもたちもいた。「『いくつ?』って聞いても、返事ができなかった。本当に"岡田正"という名前だけ。それも本名かどうかはわかりませんでした。でも、学校に入らなくちゃいけないので籍を作って、小学校1年生くらいかな?ということで1年生に入れた」。

 さたよさんは子どもたちに戸籍を与え、学校に通わせた。運営費は私財を投げ打ち、それでも足りない分は自分の和服や宝石などを質に入れて工面した。裕さんは「朝起きたら私の洋服がないんでびっくりした。学校行こうと思ったら靴はないし。子どもたちが上野に持って行って売っちゃう。お金がなくなって、食べられなくなると戻ってきて"ごめんなさい"」と、愛情を込めて語る。さたよさんはそんな子どもたちも、いつも笑顔で迎えていたという。


 「子どもにとって親から離れるっていうのは最悪だと思う。いまだにかわいそうという気持ちがなくならない」。

 72回目となった終戦の日。筒井さんは64年ぶりに裕さんに再会。さたよさんの仏前で「ありがとうございました」と手を合せた。「第二の故郷。亡くなったときも電車賃が無くて駆けつけられなかった。感無量でした」。


■「なんとなく恥ずかしいという気持ちが出てきた。だからついつい言い損なった」

 子どもたちは18歳になれば愛児の家を出て行く。筒井さんも地元・大阪に戻り、生き別れた母とも再会した。しかし「全然母親だとは思わなかった、薄ら覚えで知っているだけで、だから親兄弟っていう実感が全然なかった」。一方で筒井さんは、さたよさんを「お母さん以上の人やな。私らに言わせたら」と表現する。


 石井氏は「浮浪児の方はみんなそういう言い方をする。一番多感な時期を親と過ごしていないので、家族の中に入っていっても何を話していいか分からない。『お前はどこで何をやってきたんだ』という目で、他の兄弟から見られることもある。あるいは家自体が貧しく、自分は邪魔なんじゃないかっていう思いから、再び出て行くケースが多かった」と話す。

 筒井さんは20歳の頃、職場で出会った女性と一度目の結婚をし、子どももできたが35歳で離婚。その後、今の奥さんと結婚した。しかし、長い間、奥さんに元"浮浪児"だったことを伝えなかったという。「言っても良かったが、なんとなく恥ずかしいという気持ちが出てきた。だからついつい言い損なった。職場で言っても、信用されなかった」。


 「僕が取材した数十人全員が、奥さんにも子どもにも言っていなかった。自分が虐げられてきた過去があるということを言えば、マイナスにしかならない。浮浪児経験をした10万人以上の子どもたちの99.9%が、十字架を背負って戦後の72年間を生きてきた。そういう人たちの土台の上に僕たちの社会がある。戦争を考える上で、欠かせない目線だ」(石井氏)


 「若い人にはもっと道徳を学んでほしい」と話す筒井さんは、「何かを恨んでいるか?」との問いに、「弱い者いじめ」と答えた。(AbemaTV/『AbemaPrime』より)


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