北朝鮮拉致問題 拉致認定されない“寺越事件”「お母さん、お墓で話しましょう」

20日にオンエアされたAbemaTV『AbemaPrime』の木曜日不定期企画「所太郎の今だから言える“真実”」では、「北朝鮮拉致問題」をめぐる、とある事件が取り上げられた。

同コーナーは、レポーターの所太郎氏が過去に取材した事件事故を振り返り、若い世代に“今だから言える本当に伝えたい真実”を学んでもらうもの。20日は、横田めぐみさんのように拉致とは認定されていないが、拉致問題に大きく関わる”寺越事件”にフォーカスした。


■なぜ北朝鮮に 日朝間で翻弄された寺越母子の闘い          

今から53年前の1963年5月11日。当時13歳、中学2年生だった少年・寺越武志さんは、2人の叔父とともに石川・高浜港から刺し網漁に出航。しかし翌朝、3人が乗っていた船は無人で漂流しているところを発見された。

3人が漁をしていたのは、陸地からわずか200メートル。武志さんの母・友枝さんは息子の行方を必死で捜した。しかし、行方不明のまま、2週間後には写真だけの葬儀が行われ、息子の戸籍も抹消された。

ところがそれから24年後の1987年1月、一通の手紙により状況が一変。武志さんと一緒に行方不明になったと思われていた叔父・外雄さんから「北朝鮮で暮らしている」との手紙が届いたのだ。

同年9月、友枝さんは北朝鮮へと渡り、24年ぶりの涙の再会を果たした。「日本へ連れて帰りたい」と願うも、そこは国交のない国・北朝鮮。しかし、一体なぜ、息子は北朝鮮にいるのか。そんななか、北朝鮮の元工作員が「漁船に乗った日本人3人を拉致した話を聞いたことがある」と証言、拉致の疑いがクローズアップされていく。

母・友枝さんは息子・武志さんの帰国のために奔走。一時は横田さん夫妻など、拉致被害者家族と活動を共にすることもあった。しかし、武志さんは、「沖合で遭難し北朝鮮の漁船に助けられた」と説明。武志さんと母・友枝さんは沈黙の道を選んだ。


■突然手紙が届いた理由とは

番組では事件当時から北朝鮮の拉致問題に関する取材を続けている、ジャーナリスト・高世仁さんを交えて話を進めた。


--武志さんの伯父・外雄さんからの手紙。どういったもの、何のためのものだったのでしょう?


高世氏:あとでわかったことですが、これは『仕送りしてちょうだい』というお願いをしたくて、連絡したんですね。


所氏:武志さんのおじさん、外雄さんが在日の帰国者の方と結婚なさっていて、そのご親戚筋をたどって書いた日本あての手紙がまわりまわって、武志さんが生きているという情報が伝わったんです。


高世氏:もちろん自分が日本人だということは周りに言えず、密かに生きていたんですけど、家の経済状態がどうしてもきつくなって連絡してきたようです。

このとき、すでに武志さんは37歳。旋盤工をしながら結婚し、2男1女の子供をもうけていた。お母さんにしてみれば、少なくともなんで北朝鮮にいるのか知りたかったが、武志さんは「人命救助」と答え「拉致」とは言わなかった……。


所氏:船が発見されたのは7キロ沖。200〜300メートルにいたはずの船がそんなところに、そんな状態で。何があったのか、いろいろ考えますよね。


高世氏:我々はこれを「遭遇拉致」と呼んでいるんですけど、能登半島というのは、北朝鮮から工作船が頻繁に入るところなんですよね。それでこの時の漁というのは、刺し網といって、夜沖合で網を入れて、朝帰ってくる船なんですけど、おそらく夜入ってきた工作船とトラブルになって、まずいということで持っていったんだと思うんですね。300メートルといったら日本の領海ですから、そんなところを北朝鮮の船がウロウロするのがおかしい。


所氏:もし本当に人命救助なら、連絡すればいいだけの話。なぜ「拉致」とは言わなかったのか…。すでに北朝鮮での暮らしがあるなかで、もう言えなかった、沈黙せざるを得ない道だったのかと想像できる。


そして、その後1997年に日本で拉致問題が大きく報道されると、その年、武志さんから「来年、今住んでいる亀城(クソン)から平壌へ引っ越すことになった」と友枝さんに連絡があった。平壌というのはエリートしか住めない街。その街で、高層マンションの13階1フロア8部屋。武志さんには「平壌市職業総同盟副委員長」という朝鮮労働党の役職まで与えられた。さらに1998年2月4日という日付の入った故・金正日総書記のサインが。これは北朝鮮にどんな思惑があったのか。


田舎の旋盤工だった武志さんが、ある日突然これほどの地位に。これは、豪華な待遇で「拉致」とは思わせないように、北朝鮮側の拉致問題のカードとして利用されたのではないかという見方もある。


■寺越武志さん、一時帰国 金英浩(キムヨンホ)としての来日

2002年10月、寺越武志さんは「平壌市職業総同盟副委員長・金英浩」として訪日する。それにはどういった意味があったのか? そして友枝さんの思いとは?

故郷での滞在期間は、わずか6日間。寺越さんが北朝鮮に渡って53年間、日本に帰れたのはこのときのたった一度だけだ。武志さんが平壌空港に着いたその日、羽田空港には政府専用機で帰国した5人の拉致被害者の姿があった。

友枝さん:平壌を降りるものと発つものと。それは、武志はわかっている…。(北朝鮮とは、おそらく)そういう約束ができとって、泊まった日に私が帰さなかったら、あの5人は帰ってきてないかもしれない。そしたら私はこんな顔しておられない…。私は、北朝鮮に武志を捧げたんか、日本政府に捧げたんか、私の気持ちは…。


その後、北朝鮮に変化が訪れる。武志さんにサイン入りの手紙を送っていた金正日総書記が急死したのだ。当時、ニュースを聞いた友枝さんは驚いたと言う。


友枝さん:この子(武志さん)の生活がこうしておいていいものか、どんな風になるか 将軍様も亡くなったから、生活がどうなるか、やっぱり武志の生活が不安で心配…。


三男の金正恩第一書記の体制後、友枝さんは訪朝回数が減り、2013年4月から3年半以上、訪朝をしていない。


友枝さん:電話の一声もほしい。「お母さん」って呼んでほしい。「お母さん」って武志も呼びたいだろうし、私も呼んでほしい。ああ武志かって…。(でも)待ったけどこないから、仕方のないことやな…。


日本と北朝鮮の狭間で、翻弄され続けた寺越さん親子の運命。そんな中でも、目を閉じるといつものように浮かぶ光景が、武志さんの心を支え続けていた。

2009年、お母さんに渡したテープレコーダーに吹き込まれた武志さんの肉声だ。「きれいな故郷の空と海と山を今も一日も忘れることはできない故郷です。夢にいつも出てくる石川の自然、同級生、友達を忘れる事が出来ません。いちばん近い国のところにおりながら自由にいけれんことは、本当にさみしいです」


■なぜ“北朝鮮の人間”のフリをする必要があったのか

2002年、小泉首相訪朝によって「5人生存8人死亡」と一方的な通告のあった5人の拉致被害者が帰国した。

所氏:10月3日に「平壌市職業総同盟副委員長・金英浩」として“訪日”していたんです。なぜそのタイミングで? さらに「寺越武志」ではなく「金英浩」としてきたのはなぜだったのでしょうか?


高世氏:その時日本が拉致問題で盛り上がっているところに、「拉致じゃない人がいるんだよ、ちゃんと人道的に我々は扱っているんだよ」ということをカウンターとして、拉致問題を薄めようとしたんでしょうね。お母さんも本当は拉致だと思っているんだけども、それはもう言えないと。お母さんは拉致問題の家族会に一時期参加していたんですが、途中、武志さんからやめてくれという要請があったようですね。


所氏:日本滞在中、武志さんがお母さんの所に泊まった時、夜中、幼子のように布団の中に入ってきて、お母さんの胸に手をあてて、一言言ったそうです。「お母さん、お墓で話しましょう」と。それから北朝鮮にまた戻っていった・・・。


高世氏:お母さんに代わって、私たちがちゃんと声をあげて、「これは拉致なんだ」と言っていかないといけないと思うんです。


所氏:拉致された人として、寺越さんは認定されていないんです。ほかにもまだまだいらっしゃるかもしれない。


高世氏:あの国が、基本的な民主化を遂げないと、こういう問題は解決しにくいんじゃないかなと思います。4代続くほど、こういった問題がいまだに続いている。日本の国家としてどう扱うのか、もう一度考えてみるべきだと思います。


所氏は、武志さんがいなくなった1963年5月11日は土曜日。翌12日は日曜日、5月の第二日曜日は”母の日”であったことを指摘する。2016年で、武志さん(67)と友枝さん(85)が離れ離れになってから53年。


所氏は「お母さん、武志さんにとっての、『母の日』っていうのはどんな日だったのか。ちょっとみなさんもそのことに心を寄せてみてください。それを思っていただくだけで、この問題、少しは違う見方ができるのではないかという気がするんです」と訴えた。


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