届かぬ”被爆体験者”の声 「国が死ぬのを待っているのではないか」

1945年8月9日午前11時2分、現在の長崎市平和公園近くにある原爆落下中心碑の上空500メートルで原子爆弾が炸裂した。今年74歳になる谷山勇さんは3歳の時、姉とともにここで原爆にあった。しかし谷山さんは、被爆者援護法では被爆者には当たらないという。

被爆者援護法によって国が定める地域には、爆心地から同じ距離だとしても、被爆者として認められる地域、そして認められない地域がある。被爆者として国が認めている地域は、当時の自治体の境を基準にして設定されたため、南北に24キロの細長い形といういびつな形をしている。その外側では被爆体験者という名前に変わる。谷山さんがいた矢上地区は、まさにこの被爆体験者に該当する地域だった。

実際には、谷山さんや周囲の人にも被爆した人と似た症状が現れていた。しかし国の援護を受けるためには精神科医などの診断が必要で、被爆認定者と同様の支援を受けることは難しい。被爆認定者に対しては国が医療費を負担したり、必要と認められれば手当が支給されるのに対し、被爆体験者には原爆に遭った体験による精神疾患やその合併症にだけ医療費が支給される。国からの支援制度の内容に大きな格差があるのが現状だ。

また、被爆者と被爆体験者のラインが当時の行政区分に基づいて、画一的に設定されていることについて、長崎大学 環境科学部の高辻俊宏教授は「まったく科学的な根拠は全くない」と断じる。

そのような状況に対して、谷山さんたち被曝体験者395人は、2007年に、被爆者健康手帳の交付を求め、長崎地裁に提訴した。さらに2011年には第二陣となる11人が司法に判断を仰いだ。このうち、第一陣は一審の長崎地裁、二審の福岡高裁とも健康被害の証拠が見当たらないとして敗訴。原告は上告した。

一方、第二陣の裁判では今年2月一審の長崎地裁は原告のうち10人について健康被害が生じる可能性があったとして、被爆者と認定された。しかし判決を不服として、被告の国や長崎県、長崎市は控訴している。

「国が、自分たちの死ぬのを待っているのではないか」

第一陣の原告里輝男さん(82)は怒りを隠さない。里さんがあの瞬間を迎えたのは、爆心地からおよそ12キロの長崎市戸石地区だった。光や爆風のあと、灰が降ってきたのを覚えているという。里さんは甲状腺に腫瘍ができ、手術を受けた。被爆者に似た症状が出ているにもかかわらず、被爆者と被爆体験者の間で国から支援に差があることについて納得はできない。

ここまでの司法の判断に対する考えを聞かれて、被爆体験者訴訟 弁護団 三宅敬英さんは「全く納得のいかない判決が続いている。いつになったら被爆体験者が被爆者と認められるのか」と語気を強めた。

あの日から71年。彼らに残された時間はあと、もうわずかしか残っていない。

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