長崎市長、各国首脳の被爆地訪問を呼びかけ 日本政府へ「非核三原則の法制化」を訴え

長崎への原爆投下から71年となった9日、長崎市の平和公園で平和記念式典が行われた。長崎市の田上富久市長は、核兵器のない世界の実現に向けて「人類の未来を壊さぬため、持てる限りの英知の結集を」と語った。


オバマ大統領の広島訪問については「大統領は自分の目と耳と心で感じることの大切さを世界に示した」と評価。そして「長崎や広島に来てください。それこそが核兵器がない世界を考えるスタートラインとなる」と各国の指導者に被爆地を訪れるように強く呼びかけた。また、日本政府が核廃絶を訴えながらも核抑止力に依存する立場を取っていることをあげ、この矛盾を解消する方法として非核三原則の法制化や核抑止力に頼らない安全保障の枠組みの創設を訴えた。

式典では、この1年で亡くなった3487名の原爆死没者名簿が奉安され、これにより長崎の原爆死没者の累計は17万2230名になった。被爆者代表として長崎件被爆者手帳友の会の井原東洋一会長(80)は「私たち被爆者は71年間もの間、毎日が苦悩の中にあり2世3世もその憂を引き継いでいる」と語った。戦後71年となる今年、全国の被爆者の平均年齢は80.86歳と高齢化している。(今年3月現在厚生労働省)

伊藤雅弘さん(81)は1945年8月原爆投下当時まだ10歳だった。原爆投下された当時、伊藤さんは爆心地から約20km離れた場所におり、その日のうちに長崎市内に入ったとされる入市被爆者である。入市被爆者とは、原爆投下後2週間以内に救援活動や肉親探しなどで爆心から2km内に立ち入り被爆した人のことで、残留放射線などで被爆したと考えられる人のことを指す。伊藤さんは原爆投下の瞬間、長崎で目にしたものについて「ピカって光ったと思ったら物凄い衝撃音が走った。当時は耳と目を抑えて伏せなさいという教育をされていたため起きて空を見るとキノコ雲ができていた。空は真っ暗だった。」と当時の光景を語った。「市電が真っ黒焦げだったから、乗っていた人たちは全員即死だっただろう」と当時を振り返る。また。「『水をばくれんねー、水をばくれんねー』と繰り返し叫んでいる人がたくさんいたが、誰一人として水をあげようとしなかった」と原爆の被害の大きさを物語った。

オバマ大統領も演説したように、終戦から年月の経過とともに被爆者の声は年々少なくなり、彼らの思いは届きにくくなる一方だ。だが、核兵器廃絶を目指し一致団結していくためには、被爆者の思いを忘れることなく、伝えていかなくてはならないだろう。

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